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Funk D'Void - Volume Freak (2004)



こちらも盟友のマチュからの推薦盤。
王道テクノといった感じです。
綺麗なストリングスとキラキラしたメロディ、
ハンドクラップを使った4打ビート。
パーカッションがメロディとして鳴っています。
クラブでかかったら踊り倒すしかない!

ビートに身を委ねて見える景色は
真夜中のロングビーチといったところでしょうか。
二人の夜は熱く燃え上がる!

彼の公式サイトでバイオグラフィーが
載っていたのでちょっと軽く紹介してみたいと思います。

(意訳)
俺はFunk D'Void。DJであり、Soma Recordsの敏腕プロデューサーだ。
15の時からDJやり始めて、18歳以下の2つのクラブで学校の友達とヒットチャートナンバーばっかりをガキども相手に流してたさ。その後学校を卒業して将来は音楽関係にと思った。

大学は俺のキャリアの中では邪魔で、空虚で思い出したくもないよ!
ハウスミュージックが俺の生活を変えたのさ!初期のシカゴサウンド、
あの古臭いドラムマシンが本当に俺の中の何かを動かしたんだよ。
Marvin Gayeの808のドラムの音は今でも覚えているし、Sexual Healin(?)とDerrick Mayの909ビート、YAMAHAのWoodPianoに心奪われたよ。その瞬間から全てははっきりとした。

80年代後半からクラブの重要人物であるColin Barrを手伝い、クラブの中の最高の住居をくれたんだ。若者のプレイが古い群衆に挑んでいたように思えるよ、クラブのクラシックスと初期アシッドハウスを混ぜてプレイしてんたんだからね。良き日々だったよ。

1990年に俺はクラブで信じられないような体験をもたらしてくれたUFOやTin Pan Alleyを回してたよ。hip hop, miami bass, acid, detroit techno,indie-danceとか、どんなジャンルでも回したね。でもグラスゴーから手を引いてからはついていけなくなった。

1992年あたりにColin Barrの兄弟のMelと一緒に"Tunnel on Sundays"(※Summer of Loveみたいなもんかな?)をやったよ。
その間はFopp Records(※現在はASH、ベルセバ、千と千尋の神隠し、なんかを手がけている)のバイヤーとして働いてたよ、音楽産業というものを学んだ素晴らしい機会だったね。自然と俺はこの仕事に落ち着き、あらゆるジャンルから音楽の宝石を発見していったよ。店の広告担当から離れて寂しいけど、今は楽しい。SomaのマネージャーのRichard Brownが道の向こう側にあるライバル店で働いて、俺達は家族みたいなもんだからさ。

1994年にはグラスゴー大学のKen Sharmenにアプローチをかけて、プロジェクトを一緒にやったね。彼は俺の海賊放送DJを聴いていて気に入っていたからさ。Kenはスタジオでの仕事の要領を教えてくれたんだ、感謝してもしきれないよ!俺達はUnited Sates Of Soundというバンドをやって"Kiss The Baby"っていうCDもBomba Recordsからリリースしたんだ。俺たちは国境を越えてクラブの注目の的になって、Slamが気に留めてくれたんだ。ああ、残念だけどバンドは長く持たなくて解散しちゃったんだ。

でも機材をそろえてKenと一緒にグラスゴーのHyndlandのワンルームで小さいスタジオを始めたんだ(ああ、懐かしい・・)。それはとっても貴重な時間で、滅茶苦茶な人間関係を改めることができて、最終的には新しい出発をすることができたんだ。そのスタジオから"Jack Me Off"(1995)が産まれた。
あるパーティに出かけてSlamのStuart McMillanに出くわしたんで、デモを渡したら翌週に曲が気に入ったからEPでも出さないかといわれた。そういうわけでSomaなんだ。

今はアルバイトをやめたよ。俺の親友Nigel Hayesと協力してChaserを始めた。Giles Peterson(※BBCの大御所DJ)からサポートを受けてなんとかやっているよ。
Chaserの音はjazzy/funkierなダンスミュージックに傾倒していった。
たくさんのストリングスはあるけど満足してないよ。
Chaserでは1998年、灼熱のニューヨークの夏にレコーディングしたに"Life in Loisada"、 "Game On"をリリースした。今の才能はこのときに身に付けた。

"bad coffee" (great Slam mix) の後の"Soul man" は97年にビッグヒットとなったよ。そしてAKAIのMPCとDJミキサーのみでダビングを始めたのさ!!AKAIのビートボックスは俺のグルーブを本当に変えてしまった。数年前のライブミックスを確認してみてくれよ、全部MPC3000でやってるから。最近は2000XLを使ってるけどね。

それから1stアルバムの"Technoir"を発表し、狂気への旅が始まった。Soma Nightのライブツアーで世界中をまわった。それから"Herbie On Rhodes"のトラックをIan Pooleyと一緒にremixしたんだ。"Lucky Strike"をremixしてみてremixを楽しむことを発見したよ、だからremixは今でもやってるよ。
お気に入りのremixはE-dancerの"Banjo" と、もちろん"Diabla"だね。数週間頭を悩ませたけど、忙しい仕事は報われて最大の成功を手にすることが出来たよ。

98年には景色を変えるためにバルセロナに移転して、今も住んでる。
"Barnabeats" と "Desperado"を含んだ2ndアルバムの"Dos"を出した。それからUnderworldNew Orderのremixをやって、最近は執筆活動やプロデュースやリミックスの作業をしてるんだ。

ディスコグラフィーをこのサイトでチェックしてくれよ。覚えている限りどんどんバイオグラフィーを更新していくからな。それじゃあ楽しんでくれよ!!(※2004/11/08アクセス現在の文章)


ふぅ、疲れた・・・
(全然軽くじゃないですね。全文ほぼ紹介してます)
なんとFunk D'Voidは昔UFOやTin Pan Alleyを聴いていたのです。
ちょっとびっくりですね。

本人もお気に入りのremixである"Diabla"のHeavenly Mixは4曲目に収録されてます。最高です。

編集後記:
今日の日経新聞「領空侵犯」で踏み切り一時停止をしないように
法律を改正すべきとの意見が載っていました。
どうやら日本と韓国だけが一時停止する法律があるようです。
これで渋滞が緩和されるとのこと。

踏切事故の多くは、一時停止のためのエンスト、遮断機
信号機があれば一時停止しないでいいなら、遮断機の意味はない。

確かに納得です。
でもアメリカの事故映像で線路に突っ込んだ車の映像が忘れれないですね。
(まぁ、パトカーとのカーチェイスの果ての事故だったのですが)

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Lars Sandberg: all
| Funk D'Void | 21:49 | comments(0) | trackbacks(1) |
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