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2013.09.30 Monday
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ある日京王線で喧嘩がある また今日も戦う
訳はしる必要はないんだ
瞬間スリルイン 瞬間ファイトアウト
血がたぎる すべるんだ!
京王線中を俺の割れた額から出る血でひたす
もう、しくじるものか!
(意訳)
俺はFunk D'Void。DJであり、Soma Recordsの敏腕プロデューサーだ。
15の時からDJやり始めて、18歳以下の2つのクラブで学校の友達とヒットチャートナンバーばっかりをガキども相手に流してたさ。その後学校を卒業して将来は音楽関係にと思った。
大学は俺のキャリアの中では邪魔で、空虚で思い出したくもないよ!
ハウスミュージックが俺の生活を変えたのさ!初期のシカゴサウンド、
あの古臭いドラムマシンが本当に俺の中の何かを動かしたんだよ。
Marvin Gayeの808のドラムの音は今でも覚えているし、Sexual Healin(?)とDerrick Mayの909ビート、YAMAHAのWoodPianoに心奪われたよ。その瞬間から全てははっきりとした。
80年代後半からクラブの重要人物であるColin Barrを手伝い、クラブの中の最高の住居をくれたんだ。若者のプレイが古い群衆に挑んでいたように思えるよ、クラブのクラシックスと初期アシッドハウスを混ぜてプレイしてんたんだからね。良き日々だったよ。
1990年に俺はクラブで信じられないような体験をもたらしてくれたUFOやTin Pan Alleyを回してたよ。hip hop, miami bass, acid, detroit techno,indie-danceとか、どんなジャンルでも回したね。でもグラスゴーから手を引いてからはついていけなくなった。
1992年あたりにColin Barrの兄弟のMelと一緒に"Tunnel on Sundays"(※Summer of Loveみたいなもんかな?)をやったよ。
その間はFopp Records(※現在はASH、ベルセバ、千と千尋の神隠し、なんかを手がけている)のバイヤーとして働いてたよ、音楽産業というものを学んだ素晴らしい機会だったね。自然と俺はこの仕事に落ち着き、あらゆるジャンルから音楽の宝石を発見していったよ。店の広告担当から離れて寂しいけど、今は楽しい。SomaのマネージャーのRichard Brownが道の向こう側にあるライバル店で働いて、俺達は家族みたいなもんだからさ。
1994年にはグラスゴー大学のKen Sharmenにアプローチをかけて、プロジェクトを一緒にやったね。彼は俺の海賊放送DJを聴いていて気に入っていたからさ。Kenはスタジオでの仕事の要領を教えてくれたんだ、感謝してもしきれないよ!俺達はUnited Sates Of Soundというバンドをやって"Kiss The Baby"っていうCDもBomba Recordsからリリースしたんだ。俺たちは国境を越えてクラブの注目の的になって、Slamが気に留めてくれたんだ。ああ、残念だけどバンドは長く持たなくて解散しちゃったんだ。
でも機材をそろえてKenと一緒にグラスゴーのHyndlandのワンルームで小さいスタジオを始めたんだ(ああ、懐かしい・・)。それはとっても貴重な時間で、滅茶苦茶な人間関係を改めることができて、最終的には新しい出発をすることができたんだ。そのスタジオから"Jack Me Off"(1995)が産まれた。
あるパーティに出かけてSlamのStuart McMillanに出くわしたんで、デモを渡したら翌週に曲が気に入ったからEPでも出さないかといわれた。そういうわけでSomaなんだ。
今はアルバイトをやめたよ。俺の親友Nigel Hayesと協力してChaserを始めた。Giles Peterson(※BBCの大御所DJ)からサポートを受けてなんとかやっているよ。
Chaserの音はjazzy/funkierなダンスミュージックに傾倒していった。
たくさんのストリングスはあるけど満足してないよ。
Chaserでは1998年、灼熱のニューヨークの夏にレコーディングしたに"Life in Loisada"、 "Game On"をリリースした。今の才能はこのときに身に付けた。
"bad coffee" (great Slam mix) の後の"Soul man" は97年にビッグヒットとなったよ。そしてAKAIのMPCとDJミキサーのみでダビングを始めたのさ!!AKAIのビートボックスは俺のグルーブを本当に変えてしまった。数年前のライブミックスを確認してみてくれよ、全部MPC3000でやってるから。最近は2000XLを使ってるけどね。
それから1stアルバムの"Technoir"を発表し、狂気への旅が始まった。Soma Nightのライブツアーで世界中をまわった。それから"Herbie On Rhodes"のトラックをIan Pooleyと一緒にremixしたんだ。"Lucky Strike"をremixしてみてremixを楽しむことを発見したよ、だからremixは今でもやってるよ。
お気に入りのremixはE-dancerの"Banjo" と、もちろん"Diabla"だね。数週間頭を悩ませたけど、忙しい仕事は報われて最大の成功を手にすることが出来たよ。
98年には景色を変えるためにバルセロナに移転して、今も住んでる。
"Barnabeats" と "Desperado"を含んだ2ndアルバムの"Dos"を出した。それからUnderworld、New Orderのremixをやって、最近は執筆活動やプロデュースやリミックスの作業をしてるんだ。
ディスコグラフィーをこのサイトでチェックしてくれよ。覚えている限りどんどんバイオグラフィーを更新していくからな。それじゃあ楽しんでくれよ!!(※2004/11/08アクセス現在の文章)
SlamはStuart McMillan と Orde Meikleの二人でやってる。グラスゴーのアングラHouseとTechonoシーンとSomaのようなレーベルは同じ意味だね。Slamは国際的なDJとしてその評価は今でも高い。レコーディングのアーティストとして成功し、コラボレーションでも尊敬を受けている。ここ10年間でイギリスのダンスシーンでDo It yourselfの精神を実証してきた。
(中略)
※ここから Year Zeroの紹介が始まります。
二人の発言をピックアップしてみましょう。
"アルバムについて"
・いつも通りにアルバムを作っただけさ。(Stuart)
・でも俺達がやりたかったことだよ。初めてエレクトロ、ファンク、レゲエなんかを聴いたときのように。初期のハウスシーンはエキサイティングだったんだよ。前進するためにちょっと振り返ってみたかったんだ。(Orde)
・ボーカルのあるエレクトロニックミュージックなんだ。(Stuart)
・少なくともクラブシーンには影響があると思うよ。(Orde)
"コラボレーションについて"
・自分達の仕事に慣れちまったんだよ。(Orde)
・誰かが混乱に巻き込んでくれて、何が起こるかわからないんだよ。(Orde)
"Ghost Electric"
・元に戻ったんだ、自分の中の正しいサウンドを発見して。(Orde)
"Kill The Pain"
・ずーっとPrinceの"Sign O' The Times"ばかり聴いていたよ。何か似たようなものを書きたかったけどイラク戦争と関係があるわけじゃないよ。海外ホテルで夕方ずーっとニュースを見ていたけどね。(Stuart)
・ヤク中についてのメッセージが忘れられない歌だね(Orde)
"Fast Lane"
・ときどき諦めたくなる気持ちになる。ときどき満足できなくなる。(※歌詞です)
"Metropolitan Cosmopolitan"
・Elbee Badがスタジオに来たときに何をしでかすかは俺達にはわからないよ。ラップで俺達を驚かせてくれたけど。(Stuart)
"Bright Lights Fading"
・フロアから連れ出して今夜お前の中に入れてくれよ。もしさせてくれるならお前の心俺は吹き飛ばされちゃうぜ。(※歌詞です)
"Known Pleasure"
・"Known Pleasure"は典型的なSlamトラックだね。クラブのためでもあるし、俺達のストリングスへの愛情がたっぷりだよ。(?)
・俺達が大好きなクラッシクスのような音楽を作れるようにいつもチャレンジしてるんだ。(Orde)
Envoyとは一体何者なのか。彼は現代のテクノ魂をもった男、"Emotional"のような熱いトラックを吐き出すシンガーなのか。それとも"Dark Manoeuvres"のようなクラブシンフォニーを奏でるミュージカルの天才「ストリングスの王」なのか。おそらく、シカゴハウスの伝説となっている"Sex Drive"のように彼はセクシーなのか。またはわずかばかりの人間性を持ったファンキーマシーンなのだろうか。多分Envoyはポップミュージックの中で飛んでいるんだ。
※長すぎるでEnvoyの発言を中心にピックアップしましょう。
2004/02/21にEnvoyの初ライブが行われたが、観客は熱狂して彼に賞賛を与えた。ステージの外でのソフトな彼とは違い、ドレッドヘアをぶんぶん振り乱した。テクノの伝道者のように輝いていた。1995年にSomaと契約していたがシンガーソングライターとしてのバックグランドを持っていた。
「俺が若かった頃はPrinceにのめりこんで曲を書きたくなったんだ。今でもElton Johnの曲をピアノで弾いて楽しんでるよ。」
「以前はサビがなかったからアシッドハウスが嫌いだったんだ。でもそれからクラブに通いだしてレコードを買ってアシッドハウスの良さを理解したんだよ」
「デトロイトテクノには親密感を感じるよ。なんて呼ばれているかよくわからないけどね。」
「Chicken Lips(※Envoyが以前やっていたバンド)はジャズファンクバンドになって、俺をシンガーとして迎え入れた。でも俺は6ヶ月しかバンドにいなかったんだ。メジャーレーベルはバンドを"Playing With Knives"(※なんでしょ?)のようにしたかったんだけど、俺にはそれがつまらなかったんだ。この苦い経験があったからインディーレーベルへと俺を向かわせた。」
Hope(※Envoyの本名)はPeacefrogやPlink PlonkといったレーベルでSt Vitus Dance、Urban Groove Allianceとしてダンスミュージックをリリースしました。HopeはSlamに1995年に出会いSomaからデビューEPをリリースします。(※やはりSlamなんですねぇ。)
「Carl Coxが"Dark Manoeuvres"のドラマティックなストリングスを使ってから全てが始まったんだよ」
「"Soma 50"コンピレーションは俺にとってターニングポイントになったね。初めて聴いたときに何かしなきゃいけない気持ちにさせられたよ。素晴らしい才能をもった人がいるところで俺はまた歌うことを決めたんだ。」
Hopeのハイピッチなボーカルは"Emotional"で披露された。そして1998年のデビューアルバム"Where's There Life"は彼のソウルフル色合いが特徴として出ていた。
「始まったばっかりの時にそのまま創ったから俺の薄っぺらい面が出ているんだ。」
しかし彼のデビューアルバムはいまだにテクノソウルとして新鮮であり、エモーショナルであります。
「おれはいつもデトロイトサウンドにしたいんだよ。廃れてしまったり、時代遅れだったとしても新しくて素晴らしいレコードは俺を吹き飛ばしてしまうんだ」
「今までに味わったことがないくらい最高だよ。
漸く今までやってきたところから本当の出発ができるんだ。」
ストリングスは29人編成のオーケストラで録音されていて、2002年にムーランルージュでゴールデングローブ賞を取ったCraig Armstrongがアレンジをしているのです。
コマーシャルな市場や音楽産業に関係なくこの"Shoulder 2 Shoulder"は近年稀に見るエレクトロミュージックとして輝いています。
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